エアジョーダン「禁止」と罰金伝説の真相|問題の靴はエア シップだった、ナイキ契約までの経緯

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「マイケル・ジョーダンは、ルール違反の黒と赤のエアジョーダンを履いて試合に出続けた。そのたびにNBAから1試合5,000ドルの罰金が科されたけど、ナイキが喜んでそれを払い続けた」。NBAファンなら一度は聞いたことがある話だと思います。僕もずっとこの話をそのまま信じていました。スニーカーの歴史を語るときの鉄板ネタで、ナイキの度胸とジョーダンの反骨精神が一発で伝わる、本当によくできたエピソードです。

で、せっかくなのでこの話をちゃんとまとめようと思って、ジョーダンがナイキと契約するまでの流れも含めて調べ始めたんですが、調べれば調べるほど「あれ、なんか話が違うぞ」となっていきました。結論から言うと、僕が信じていた形の話は、少なくとも記録で確かめられる範囲では成り立っていません。ただ、だからといって「全部ウソでした」で終わる話でもなくて、むしろ本当の経緯の方がよっぽど面白かったです。

今回はかなり長くなります。ジョーダンがナイキを選ぶまでの話、1984年10月18日に実際に何があったのか、罰金は本当に払われたのか、そして「前例を壊した」と言われるのは具体的に何だったのか。最後は映画『AIR/エア』との違いや、今のジョーダンブランドの規模まで、調べた順番に近い形で書いていきます。

調べ始めて最初につまずいたこと

最初に「え?」となったのは、問題になった靴そのものです。僕はずっと、NBAに目をつけられたのはあの黒と赤のエアジョーダン1(いわゆる「Bred」や「Banned」と呼ばれるカラー)だと思っていました。ところが、複数の記事を読んでいくと、1984年10月18日にマディソン・スクエア・ガーデンで行われたニックスとのプレシーズンゲームでジョーダンが履いていたのは、エアジョーダン1ではなく「ナイキ エア シップ(Nike Air Ship)」という別のモデルだったと書かれているんです。

しかもこれ、ナイキ自身が認めています。ナイキの公式サイトに2025年10月に掲載された「Banned」カラーの歴史を振り返る記事の中で、ジョーダンが1984-85シーズンのプレシーズンに最初に履いたのは、エアジョーダン以前の黒と赤のシューズ「Nike Airship」だった、とはっきり書かれています。当時、エアジョーダン1はまだ仕上げの段階で、試合に間に合う状態ではなかったそうです。

エア シップはブルース・キルゴアがデザインしたモデルで、エアフォース1の後継にあたるバスケットボールシューズとして1984年に発売されたものです。見た目は確かにエアジョーダン1とどことなく似ていて、黒と赤の配色だと遠目には区別がつきにくいかもしれません。正直、僕はエア シップという名前自体ちゃんと意識したことがなかったので、ここでまず一つ目の思い込みが崩れました。

「禁止されたエアジョーダン」の話をしているのに、そもそもそれがエアジョーダンじゃなかった。この時点でだいぶ話が変わってくるんですが、ここで一度立ち止まって、時計の針を少し前に戻します。なぜナイキはまだ新人だったジョーダンにそこまで賭けていたのか、そもそもジョーダンはどうしてナイキと契約したのか。ここを知っておくと、10月18日の出来事の見え方がかなり変わってきます。

1984年のナイキは、今のナイキじゃなかった

今のナイキしか知らないと想像しにくいんですが、1984年のナイキはけっこう苦しい時期にいました。ESPNのダレン・ロベルの記事によると、ナイキの売上は1973年の2,870万ドルから1983年には8億6,700万ドルまで伸びていたものの、1984年2月に初めての四半期赤字を出しています。

当時のオレゴンの地元紙ウィラメット・ウィークが1985年10月に出した記事を読むと、さらに状況が生々しく書かれていました。1984年は利益が急減して株価も低迷、在庫は2,200万足にふくらみ、4,400人の従業員のうち400人を解雇したそうです。フィル・ナイト自身も1984年を「a bad year(悪い年)」と表現していたとのことで、急成長してきた会社が初めて大きくつまずいたタイミングだったわけです。

当時のバスケットボールシューズ市場でナイキがどれくらいの位置にいたのか、具体的なシェアの数字も調べてみたんですが、ネット上に出回っている数字はブログや映画公開時の解説記事が出どころのものが多く、元の資料までたどれませんでした。なのでここで数字を断定するのはやめておきます。ただ、後で出てくるジョーダン本人の話を聞くと、少なくともバスケの世界ではコンバースの方が圧倒的に「格上」だったことは伝わってきます。

もう一つ、映画『AIR/エア』で印象的だった「ナイキのバスケ部門の予算は25万ドルしかなく、本来3〜4人と契約するための予算を全部ジョーダンにつぎ込んだ」という話も、今回の調査では元になる一次資料を確認できませんでした。記事によって金額もバラバラなので、これは映画の設定として受け取っておくのが良さそうです。いずれにしても、ナイキが「次の一手」を必要としていた時期にジョーダンが現れた、というのは間違いなさそうです。

ジョーダンはナイキに行きたくなかった

ここからが個人的に一番意外だったところです。ジョーダンは、もともとナイキに全く興味がありませんでした。

2020年に放送されたドキュメンタリー『The Last Dance』の第5話で、ジョーダン本人がこの頃のことを話しています。CBS Sportsのまとめによると、ジョーダンは「コンバースに行きたかった」と語っていて、ただコンバースにはマジック・ジョンソンやラリー・バード、ドクターJといったスターがすでにいて、「ルーキーがマジックやバードより大きな存在になるとは思っていなかった」とも振り返っています。2023年のTIMEの記事でも、ジョーダンは「ナイキと契約するまでナイキの靴を履いたことはなかった。僕はアディダスとコンバースが大好きだった」と話しています。

エージェントだったデビッド・フォーク(当時ProServ所属)の証言も、この話を裏付けています。2016年のESPNのインタビューでフォークは、ジョーダンは大学ではコンバースを履いていて、好みとしてはアディダスだったと語っています。今のジョーダンのイメージからすると、大学時代はコンバースを履いていたというのはちょっと不思議な感じがしますね。

じゃあアディダスに行けばよかったじゃないか、という話なんですが、フォークによるとアディダスはそもそも関心が薄かったそうです。CBS Sportsの記事では、アディダスは当時バスケットボールのシグネチャーシューズを作れる状況になかったとされていて、フォーク自身も別のインタビューで当時のアディダスは「機能不全(dysfunctional)」だったと話しています。コンバースはNBAのオフィシャルパートナーで、スター選手も抱えていたので、わざわざ新人のために大きな勝負をする必要がなかったんでしょう。

ちなみに各社の提示額については、資料によって話が食い違っています。フォーク本人の証言(ESPN、2016年)では「コンバースの提示は年10万ドル」で、最初に一番高い金額を出してきたのはスポットビルト(Spot-Bilt)というブランドだったそうです。一方で、2023年のAndscapeの記事では「アディダスが年10万ドル、シグネチャーシューズは無し」という書き方になっていて、年10万ドルを出したのがコンバースなのかアディダスなのかははっきりしません。どちらにしても、後でナイキが出してくる条件と比べると桁が違う、というところは共通しています。

母親が「行って話を聞きなさい」と言った

ジョーダンがナイキのことをどう思っていたかは、フォークのこの言葉によく表れています。『The Last Dance』の中でフォークは「ナイキは新興勢力だったから、僕はマイケルにナイキと契約してほしかった。でも彼を飛行機に乗せることすらできなかった」と話しています。エージェントが本気で推しているのに、本人は話を聞きに行くことすら嫌がっていたわけです。

そこで動いたのが両親でした。ジョーダンは同じドキュメンタリーで、母親のデロリスに「行って話を聞きなさい。気に入らないかもしれないけど、とにかく聞きに行きなさい」と言われたと振り返っています。TIMEの記事でも「両親がナイキ本社に提案を聞きに行かせた」と話していて、フォークもESPNのインタビューで、両親がナイキ本社への訪問を後押ししたと証言しています。

ESPNの2013年の記事によると、ジョーダンは当初「あそこに行くことには全く興味がない」と言っていて、フォークが両親を説得する形で話が進んだそうです。このあたりは関係者の証言が一致していて、ジョーダンが自分から積極的にナイキを選んだわけではない、というのはかなり確かな話だと思います。

これ、冷静に考えるとすごい話です。もし母親が「好きにしなさい」と言っていたら、ジョーダンはたぶんビーバートンに行っていませんし、そうなるとエアジョーダンも存在しなかったかもしれません。歴史の分岐点がドラフトされたばかりの若者のわがままと、それを諭した母親の一言にかかっていたというのは、なんだか妙に人間くさくて好きなエピソードです。

「誰がジョーダンをナイキに連れてきたのか」問題

映画『AIR/エア』を観た人は、マット・デイモン演じるソニー・ヴァッカロがジョーダン獲得の立役者だというイメージを持っていると思います。主役として描かれているので、そう受け取るのが自然です。ところが、ここも関係者の証言がけっこう割れています。

フォークは2016年のESPNのインタビューで、「僕はソニーと契約をまとめたわけじゃない。フィル・ナイトとロブ・ストラッサーとまとめたんだ」と話しています。ヴァッカロが社内で「ジョーダンに賭けるべきだ」と主張した可能性はあるとしつつも、交渉そのものには関わっていなかった、という立場です。

さらに面白いのがジョーダン本人の発言です。2015年の報道によると、ジョーダンは「本当はソニーじゃなくて、ジョージ・ラベリングだった」と話しています。ラベリングは1984年ロサンゼルス五輪のアメリカ代表でアシスタントコーチを務めていた人物で、その代表チームにいたジョーダンに「ナイキに行け」と勧めていたそうです。

そのラベリングは2025年9月に88歳で亡くなりました。AP通信の記事には、ジョーダンの追悼コメントとして「僕がナイキと契約したのはジョージがいたからで、彼がいなければエアジョーダンは存在しなかった」という言葉が載っています。本人がここまで言い切っているのはかなり重いです。

一方で、ナイキ創業者のフィル・ナイトは「成功には千人の父がいる」と言って、ストラッサーやデザイナーのピーター・ムーアの功績を挙げていたそうです。結局のところ、ヴァッカロ、ラベリング、フォーク、ストラッサー、それに両親と、それぞれが別々の場面で役割を果たしていて、「この人一人のおかげ」と言える話ではないんだと思います。証言が対立しているので、どれが正しいかを僕がここで決めることはできませんが、少なくとも映画のように「ヴァッカロが一人で全部やった」という話ではなさそうです。

ちなみに、映画を作る前にジョーダンはベン・アフレックに対して、ラベリングとハワード・ホワイト(ナイキの幹部)を登場させてほしいと要望していたそうです。映画にこの二人がちゃんと出てくるのは、ジョーダン側の意向でもあったわけですね。

1984年8月、ビーバートンでのプレゼン

結局ジョーダンは両親と一緒に、オレゴン州ビーバートンのナイキ本社へプレゼンを聞きに行きます。2023年のAndscapeの記事によると、プレゼンが行われたのは1984年8月上旬以降で、それに先立って8月の第1週にはワシントンでフォーク、ストラッサー、ピーター・ムーアが会合を持っていたそうです。

準備期間は約2週間だったとされています。映画では週末に突貫で準備するような描写になっていますが、実際はもう少し時間があったようです。そして個人的に「へえ」となったのが、プレゼンで見せた靴です。映画ではあの白・赤・黒の完成品エアジョーダン1(いわゆる「Chicago」)が登場しますが、Andscapeによれば、実際に見せたのは黒と赤のエア シップの試作品と、「ウイング」ロゴの案だったそうです。「靴はまだできていなかった」という証言まであります。

ここで最初の話とつながってきます。プレゼンでジョーダンに見せた黒と赤のエア シップ。10月18日にMSGでジョーダンが履いていたのも黒と赤のエア シップ。つまり、あの「ルール違反の靴」と、ナイキがジョーダンを口説くときに見せた靴は、どちらも黒と赤のエア シップだったんです。そう考えると、ナイキにとってあの配色は最初から「ジョーダンの色」として温めていたものだったのかもしれません。

プレゼンでのエピソードとして、ESPNの2013年の記事にはこんな話も載っています。ストラッサーがプレゼン中にメルセデスのミニカーを見せ、それにフィル・ナイトが驚いたそうで、フォークは「フィルは心臓発作を起こしかけたと思う」と話しています。この話はフォークの証言なので細部は分かりませんが、ナイキが本気で口説きにいっていた雰囲気は伝わってきます。

また、プレゼンの後に父のジェームス・ジョーダンが「この契約を受けないのは愚か者だ」と言ったとされる話もありますが、これは『The Last Dance』関連の報道で伝えられているもので、元の発言を僕は確認できていません。ただ、ジョーダン家の中で両親の意見がかなり大きかったことは、他の証言からも分かります。

「Air Jordan」という名前とウイングロゴ

今では当たり前すぎる「エアジョーダン」という名前ですが、これもすんなり決まったわけではないようです。2020年のCBS Sportsの記事で紹介されている、ダレン・ロベルによるフォークへのインタビューによると、フォークが最初に提案した名前はなんと「Michael Jordan」そのままだったそうです。これをストラッサーが却下して、フォークが「Air Jordan」を思いついた、という流れです。

フォークの説明によると、「Air」には二つの意味があって、一つはナイキがランニングシューズで開発していたエア技術のこと、もう一つはジョーダンが「空中で」プレーするスタイルのこと。ダブルミーニングになっていたわけです。これを聞くと、確かに「Michael Jordan」よりはるかにいい名前だなと思います。ストラッサー、ナイス却下です(笑)。

ウイングロゴについては、ピーター・ムーアがワシントンでの会合中にスケッチして、帰りの飛行機で子どもがもらっていたパイロットの翼のバッジを見て仕上げた、という話が伝わっています。ただ、Andscapeの記事では「ウイング」が最初の名前の候補だったものの、航空会社の商標があったため使えなかった、という別の証言も紹介されています。名前とロゴの経緯は、話す人によって微妙に違うので、どれが「正史」とは言い切れません。こういう話は、何十年も経つうちにそれぞれの記憶の中で形が変わっていくものなのかもしれません。

ピーター・ムーアは1983年にナイキ初のブランド・クリエイティブディレクターとして入社した人物で、2022年4月29日に78歳で亡くなっています。エアジョーダン1のデザインだけでなく、この後に出てくる1987年の話にも関わってくる重要人物です。

契約の中身は「年50万ドル×5年」と解除条項

では、肝心の契約内容です。ここはフォーク本人の証言があるので、かなりはっきりしています。2016年のESPNのインタビューでフォークは、契約は年50万ドルの5年契約(総額250万ドル)で、ストックオプションを含めると約700万ドル規模だったと話しています。NBA.comの2019年の記事も同じく年50万ドル×5年と書いています。なお、Wikipediaには「6年250万ドル」という記載もありますが、当事者であるフォークの証言は5年です。

面白いのは解除条項です。フォークによると、3年目までにジョーダンの靴の売上が400万ドルに届かなければ、ナイキは契約を打ち切れるという条件が入っていたそうです。ESPNの2013年の記事では、少し違う形で「3年以内に新人王、オールスター選出、平均20得点のいずれかを満たせなければ2年前倒しで打ち切り可能。ただし3年目までに400万ドルの靴の売上があれば残り2年は維持」と書かれています。細かい条件の書き方には差がありますが、いずれにしてもナイキ側にも「保険」がちゃんと付いていたわけです。

これ、今の感覚で見ると「400万ドル」ってかなり控えめな目標に見えますよね。でも当時のナイキにとっては、新人一人にこの金額を賭けること自体が大きな勝負だったはずです。結果的にこの条件は笑ってしまうくらい簡単にクリアされるんですが、それは後で書きます。

ロイヤリティ(売上に応じた歩合)についても気になって調べました。2023年のAndscapeの記事によると、ロサンゼルスのL’Ermitageというホテルで「ロイヤリティ10%と25万ドル」か「ロイヤリティ5%と50万ドル」の2案が口頭で提示され、ジョーダン側は「5%+年50万ドル+ナイキ株」を選んだとされています。これはヴァッカロの証言をもとにした話です。2020年のForbesの推計でも、ジョーダンのロイヤリティは約5%とされていました。ネット上には別の割合を書いている記事もありましたが、他の資料と合わないので、ここでは「5%とされている」という書き方にとどめておきます。

デロリス・ジョーダンの本当の役割

映画『AIR/エア』で一番盛り上がる場面の一つが、ヴィオラ・デイヴィス演じる母デロリスが、ロイヤリティを要求する場面です。あの場面だけ切り取ると「お母さん、かっこよすぎるだろ」となる展開です。ただ、Andscapeの記事を読むと、実際の流れは少し違ったようです。

Andscapeによると、ロイヤリティの枠組み自体は、先ほどのL’Ermitageでの話のとおり、すでにフォークに提示されていたものでした。デロリスはその後、ヴァッカロ、ストラッサー、ナイトに電話をして、ロイヤリティについて念押しをしたそうです。ヴァッカロはそのときのことを「彼女は、僕らが彼女に約束したことを、分かったうえで改めて確認した」というふうに語っています。

つまり、デロリスがロイヤリティという仕組みをゼロから発明したというより、提示された約束を確実に守らせるために動いた、という方が実態に近そうです。ただ、これはこれでかなりすごいことだと思います。ナイキの創業者を含む幹部に直接電話をかけて「あの約束、忘れてないですよね?」と確認するわけですから。映画の脚色は入っていても、デロリスが交渉に深く関わっていたこと自体は事実として伝えられています。

ジョーダン本人の話、フォークの話、ヴァッカロの話を並べてみると、この契約は「ナイキが天才的な賭けに出た」だけの話ではなくて、「ジョーダン家がナイキを試した」話でもあるんだなと感じました。行きたくない本人を飛行機に乗せ、条件をきっちり確認する。ルーキーの周りに、こういう大人がいたことは本当に大きかったと思います。

契約が結ばれたのは「デビュー直前」

正式な契約署名がいつだったかについては、資料によって日付が違います。1984年10月24日とする記事(Andscape、ウィラメット・ウィーク)もあれば、10月26日とする資料もあります。Andscapeは「レギュラーシーズンデビューの数時間前にシカゴで署名した」と書いているんですが、ジョーダンのデビュー戦は10月26日なので、日付と記述がうまく噛み合っていません。なので、ここでは「デビュー直前の1984年10月下旬」とだけ書いておきます。

ジョーダンのNBAデビューは1984年10月26日、シカゴ・スタジアムでのブレッツ戦です。16得点、6リバウンド、7アシストで、ブルズは109-93で勝利しました。その年のドラフトで全体3位指名を受けたルーキーが、ここからリーグを変えていくことになります。

そして、ここで時系列を整理すると重要なことに気づきます。問題の10月18日のMSGでのプレシーズンゲームは、正式な契約署名よりも前の出来事なんです。つまり、ジョーダンが黒と赤のエア シップを履いたのは、まだ正式にナイキの契約選手になる前(少なくとも署名前)だった、ということになります。これでようやく、10月18日の話に戻れます。

1984年10月18日、MSGで何があったのか

ESPN、Yahoo Sports、Complexといった複数の記事が一致して書いているのは、1984年10月18日、マディソン・スクエア・ガーデンでのニックスとのプレシーズンゲームで、ジョーダンが黒と赤のナイキ エア シップを履いた、という事実です。Complexの記事によると、その3日前の10月15日にもニューヨーク州グレンズフォールズでニックスとのプレシーズンゲームがあり、10月18日のMSGを経て、11月8日にはMSGでのレギュラーシーズンの試合が行われています。このレギュラーシーズンの試合で履いていたのは、白と赤のエア シップだったそうです。

Complexの別の記事では、ピーター・ムーアの話として、プレシーズンの黒と赤のエア シップは特別に作られたもので、25足程度だったと紹介されています。つまり、あの黒と赤のエア シップは一般に売られていたものではなく、ジョーダンのために用意された特別な一足だったんですね。

では、なぜそれが問題になったのか。当時のNBAには、シューズの色に関するルールがありました。ナイキの公式記事では、当時の公式ルールは「シューズは少なくとも51%が白で、チームのカラースキームに合っていなければならない」と説明されています。ESPNの2018年の記事では、長年のルールとして「51%以上が白、または黒で、チームカラーは最小限」という形で、ホームとアウェイで扱いが違ったとも書かれています。いずれにしても、チームメイトと揃える「統一性(uniformity)」を重視した規定でした。

黒と赤がメインのエア シップは、どう見ても「51%白」には当てはまりません。バスケをやっていた人なら、チームでバッシュの色をある程度揃える感覚は何となく分かると思いますが、NBAはそれをルールとして明文化していたわけです。今の、毎試合いろんな色のシグネチャーモデルが並ぶNBAからすると、ちょっと信じられない話です。

NBAの書簡は、4か月後に届いていた

この件については、NBAからナイキに送られた書簡が残っています。日付は1985年2月25日。差出人はNBA幹部のラス・グラニック、宛先はナイキのロブ・ストラッサーです。ESPNやYahoo Sports、そしてナイキの公式記事も、この書簡について触れています。

報道で引用されている文面によると、書簡は「これまでのやり取りに基づき、マイケル・ジョーダンが1984年10月18日ごろに履いた赤と黒のナイキのバスケットボールシューズの着用は、NBAのルールと手続きによって禁止されていたことを確認する」という内容です。原文では「In accordance with our conversations, this will confirm and verify…」と始まっています。

ここ、すごく大事なポイントだと思っていて。まず日付です。問題の試合が1984年10月18日で、書簡は1985年2月25日。4か月以上も後です。そして文面が「これまでのやり取りに基づき」「確認する」となっている。つまり、この書簡はその場で出された「警告状」ではなく、それまでに口頭でやり取りがあったことを、後から文書で確認したものなんです。

しかも、書簡が対象にしているのは「1984年10月18日ごろに履いた赤と黒のナイキのシューズ」です。エアジョーダン1とは書かれていません。NBAが「この靴はルール違反だった」と文書で確認したのは、あくまで10月18日に履いた赤と黒のナイキのシューズ、つまりエア シップのことです。

僕が信じていた「黒と赤のエアジョーダン1を履いて、毎試合罰金を払いながらプレーし続けた」という話と、この書簡から見える話はずいぶん違います。書簡から分かるのは、ある1試合(プレシーズン)で履いた靴がルールに合っていなかったということと、その件について後からNBAとナイキの間で確認があったということです。なお、書簡の全文や原本そのものは今回確認できていないので、ここで書いたのは報道で引用されている部分に基づく内容です。

罰金は本当に払われたのか

ここがこの話の核心です。「ナイキが毎試合5,000ドルの罰金を払い続けた」という話は本当なのか。

先に書いてしまうと、罰金が実際に科された、あるいはナイキが支払ったという記録や証拠は、今のところ誰も示していません。2016年のESPNの記事は、5,000ドルの罰金は噂であり、ナイキが罰金を払ったという証拠は無いと書いています。Complexの2017年の記事も、罰金が実際に科されたことを示す文書は無いとしていますし、2020年のStockXの記事も「NBAもナイキも、罰金が要求された、あるいは支払われたという証拠を示せていない」と書いています。

もう一つ引っかかったのが、罰金の金額そのものです。一般的には「1試合5,000ドル」と語られることが多いんですが、ナイキ自身の2025年の公式記事では、罰金は「1試合1,000ドルになるかもしれない」と言われた、という話になっているんです。そしてそれを聞いたストラッサーが「いいね!リーグに8万2,000ドルの小切手を切っておけ」と答えた、というエピソードが紹介されています。82試合分、ということですね。ただ、このストラッサーの発言はナイキの記事にしか出てこず、もともとどの本やインタビューから来た話なのかは示されていません。なので、これも「ナイキの記事ではそう紹介されている」という話として読んでおきます。

つまり、罰金の金額は5,000ドル説と1,000ドル説があって、しかもナイキ自身の記事ですら「払った」とは書いておらず、あくまで「罰金を科されるかもしれない」という仮定の話として扱っています。ナイキ公式記事は「毎試合5,000ドルの罰金をナイキが喜んで払った」という話を「最も有名な語られ方」として紹介したうえで、それを伝説として扱っています。

当時のコミッショナーだったデビッド・スターンの話も残っています。2018年に公開されたドキュメンタリー『Unbanned: The Legend of AJ1』の中で、スターンは、素晴らしいマーケティングキャンペーンだと思ったものの、あの靴はリーグのルールに合っていなかっただけで禁止されたことは一度もない、という趣旨の話をしていると報じられています。2023年のSIの記事でも、ジョーダンとナイキに対して、履いている靴がルールに合っていないから変えてほしいと伝えた、という趣旨のスターンの発言が紹介されています(同じSIの記事は、5,000ドルの罰金で脅した、とも書いています)。僕自身はドキュメンタリーの本編を観られていないので、スターンの発言の正確な言い回しまでは確認できていませんが、要するに「ルールに合っていないから変えてくれ」と伝えた、というのがリーグ側の認識だったようです。

ここまで調べて、正直ちょっと拍子抜けしました。「NBAに逆らって罰金を払い続けた反骨の物語」だと思っていたものが、実際は「プレシーズンで履いた靴がルールに合っていなかったので、リーグが変えてくれと伝え、後から文書で確認した」という、わりと事務的な話だったわけです。罰金の話自体はあった可能性がありますが、毎試合払い続けたという記録はどこにもありません。

じゃあ、この伝説はどこから来たのか

ここで疑問が出てきます。じゃあなぜ、僕を含めて多くの人が「毎試合5,000ドルの罰金をナイキが払い続けた」と信じていたのか。

答えはたぶん、ナイキの広告です。1985年、ナイキは「Banned」と呼ばれるCMを放送しました。ESPNの記事によると、ナレーションはこういう内容です。

「9月15日、ナイキは革命的なバスケットボールシューズを作った。10月18日、NBAはそれを試合から締め出した。幸いなことに、NBAはあなたがそれを履くことまでは止められない。ナイキのエアジョーダン」

映像は、ジョーダンがボールをつき、カメラが頭から足元へとゆっくり下りていくと、シューズの部分に黒い帯がかぶさる、というものです。

このCMの冒頭の日付も、実は資料によって違います。ESPNやWikipediaは「9月15日」としていますが、2023年のSlateの記事はニューヨーク・タイムズのアーカイブなどを引いて「10月15日」と書いています。なので正確には「9月15日(10月15日とする資料もある)」です。ちなみに、ネットでたまに見る「9月15日にNBAが締め出した」という書き方は日付の組み合わせが逆で、報道されている文言では「9月15日(または10月15日)にナイキが作り、10月18日にNBAが締め出した」という順番です。僕もうろ覚えだったので、ここは調べてよかったところです。

で、このCMをよく見ると、すごく上手いことをしているんです。「NBAが締め出した」と言っていて、締め出された靴としてエアジョーダンを宣伝している。でも実際にNBAがルール違反だと確認したのは、10月18日に履いたエア シップでした。CMは「罰金を払った」とも「毎試合履き続けた」とも言っていない。それなのに、見た人の頭の中では「禁止されたエアジョーダンを、ジョーダンはナイキの後押しで履き続けた」という物語ができあがる。嘘はつかずに、ものすごく大きな物語を作っているわけです。

ナイキの公式記事によると、このCM1本で5万足がほぼ即座に売れたとされています。ただ、これはナイキ自身の主張なので、数字はそのまま事実として受け取るより「ナイキはそう言っている」くらいに捉えておくのが良いと思います。ナイキの記事には「最初のジョーダンのCMを1週間以内に撮影した」という記述もあるんですが、何から1週間なのかが文脈からは読み取れず、初回の放送日もはっきりしません。CMは制作したのが広告代理店のChiat/Dayだったとする記事もあります。

最初は「なんだ、罰金の話は伝説だったのか」とがっかりしかけたんですが、ここまで来るとむしろ感心してしまいました。リーグから「その靴はルールに合っていない」と言われたことを、そのまま「NBAに禁止された靴」という最強のキャッチコピーに変えてしまった。普通の会社なら「ルール違反で注意されました」は隠したい話だと思うんですが、ナイキはそれを真っ正面から売り文句にしたわけです。

エアジョーダン1を実際に履いたのはいつなのか

では、エアジョーダン1を試合で履いたのはいつなのか。ここも調べてみると、思っていたのと違いました。

スニーカーメディアの複数の記事によると、ジョーダンが初めて公式戦でエアジョーダン1を履いたのは1984年11月17日、ホームの76ers戦で、シーズン11試合目だったそうです。履いていたのは白・赤・黒の「Chicago」カラーで、こちらはルールに合ったカラーでした。しかもその後はいったんエア シップに戻っていて、再びエアジョーダン1を履くのは12月20日だったとされています。Complexの記事でも、開幕当初は白と赤のエア シップを履き、11月下旬以降にエアジョーダン1へ移っていった、という書き方になっています。

つまり、ルーキーシーズンの最初の1か月ほど、ジョーダンはエアジョーダンではなくエア シップを履いてプレーしていたわけです。ジョーダンブランドも2014年にツイートでエア シップとの関係に触れていたそうで、ブランド側もこの事実は把握していたことになります。

じゃあ黒と赤のエアジョーダン1はどうなのか。2016年のYahoo Sportsの記事では、黒と赤のエアジョーダン1は公式戦では履かれておらず、1985年のスラムダンクコンテストで一度履いただけだ、とされています。これを否定する資料も今回は見つからなかったんですが、逆に完全に裏付ける一次資料も見つかっていないので、ここでは「公式戦で黒と赤のエアジョーダン1を履いた記録は確認されていないとされる」くらいにしておきます。StockXの記事には「ルーキーシーズンにエアジョーダン1で1試合でもプレーした証拠は無い」という書き方もありますが、白・赤・黒のエアジョーダン1は実際に履いているので、これは黒と赤のモデルについての話として読むのが自然だと思います。

その1985年のスラムダンクコンテストは、1985年2月9日、インディアナポリスで行われたオールスターウィークエンドでのことです。NBA.comの2019年の記事によると、ジョーダンは黒と赤のエアジョーダン1に、ナイキのウォームアップ、細い金のチェーンという姿で登場しました。ルーキーがオールスターの舞台で、自分の名前のついた靴とナイキのウェアで現れる。黒と赤の「Bred」がイメージとして強烈に残っているのは、試合での着用というより、こういう舞台での露出の影響が大きかったのかもしれません。

ちなみに、黒と赤の配色についてジョーダン自身は最初あまり乗り気ではなく、「あの靴は履けない、悪魔の色だ(devil colors)」と言ったという話もSIやYahoo Sportsの記事で紹介されています。ただ、この発言がいつどこでされたものかは確認できていないので、そういう話も伝わっている、くらいに受け取っておいてください。ブルズのチームカラーなのに「悪魔の色」というのはちょっと面白いですけど(笑)。

「前例を壊した」のは、何だったのか

最初に「前例を壊した」話もすると書いたので、ここからはその話です。

最初に整理しておきたいのは、エアジョーダンは「史上初のシグネチャーシューズ」ではない、ということです。僕もなんとなく「エアジョーダンが最初」だと思っていたんですが、前例がありました。

一つはコンバースの「チャック・テイラー オールスター」です。1932年に、チャック・テイラーの署名がアンクルパッチに加えられました。テイラーはNBA選手ではなく、コンバースのセールスマン兼アンバサダーのような立場の人物です。もう一つはプーマの「クライド」で、1973年に出たウォルト・フレイジャー(クライド)のシグネチャーモデルです。こちらはNBA選手として最初のシグネチャーシューズとされています。

なので「史上初のシグネチャー」というのは正確ではありません。じゃあエアジョーダンの何が新しかったのか。NBA.comの2019年の記事で、ナイキのハワード・ホワイトは「選手が自分のもので全身を固めて現れる、そんなことができた選手は他にいなかった」という趣旨の話をしています。靴だけでなく、ウェアやロゴまで含めた「個人ブランド」として打ち出した。ここが当時としては新しかったんだと思います。

フォークも、新人選手の契約に、テニスやゴルフの選手のようなマーケティングを持ち込んだと各記事で紹介されています。テニスやゴルフは個人競技なので、選手個人がブランドの顔になるのは自然なことです。でもバスケットボールはチームスポーツで、しかも当時のNBAは「チームで靴の色を揃えろ」というルールがあるくらい「統一性」を重んじていた。そこに、一人の選手を中心にしたブランドを作るという発想を持ち込んだ形です。

そう考えると、10月18日の一件はかなり象徴的です。チームとして揃えることを求めるルールと、一人の選手を目立たせたいナイキ。黒と赤のエア シップは、まさにその二つがぶつかった場所だったんだと思います。ルールに合わなかったこと自体が、「この選手は他とは違う」というメッセージとして使えたんでしょうね。

もう一つ、契約の構造も前例のないものだったと思います。年50万ドルに加えてロイヤリティとナイキ株。選手が「広告に出てお金をもらう人」ではなく、売上が伸びれば自分の取り分も伸びる「ビジネスパートナー」に近い立場になった。2020年のForbesの推計では、ジョーダンがナイキから得た累計収入は13億ドルを超えるとされています。これはあくまで推計で、年ごとの金額も報道によってかなり幅がありますが、それにしても桁が違います。最初に「Michael Jordan」という名前を却下されていたブランドがここまで来たと思うと、ちょっと痛快です。

売れすぎた靴、初年度の数字

ここで、さっきの「3年目までに400万ドル」という解除条項を思い出してください。結果がどうだったかというと、まったく心配する必要がありませんでした。

まず、エアジョーダン1の発売は1985年春です。発売月と価格については資料によって差があって、2016年のESPNの記事は「1985年3月、65ドル」、当時のウィラメット・ウィークの記事は「1985年4月、70ドル弱」と書いています。なので「1985年春、65ドル前後」としておきます。ウィラメット・ウィークによると、構想から生産まで約4か月だったそうです。

そして売上です。ここも資料によって数字がかなり違うので、出どころと一緒に並べておきます。NBA.comは「発売後3か月で7,000万ドル」、ESPNは「9か月で1億ドル」と書いています。当時のウィラメット・ウィークは受注額として1億3,000万ドルという数字を挙げていて、フォークは『The Last Dance』で初年度1億2,600万ドルと話しています。ナイキの公式な初年度売上の数字は今回確認できなかったので、「初年度で1億ドルを超えた(1億2,600万ドルとするフォークの証言もある)」というところまでにしておきます。

一方で、ナイキ側が最初に期待していた数字も資料によって揺れていて、「3年で300万ドル」とする資料もあれば、フォーク自身は『The Last Dance』で「4年目の終わりまでに300万ドル売れればと期待していた」と話しています。どちらにしても、期待値が数百万ドル規模だったところに、1年目から1億ドルを超える売上が来たわけです。400万ドルの解除条項なんて、もはや冗談みたいな話です。

こうなると、「罰金を毎試合払った」かどうかなんてどうでもよくなってくるくらい、ナイキにとっては大成功でした。仮にストラッサーの言うように82試合分の罰金を払ったとしても、売上の規模からすれば誤差みたいなものです。だからこそ、ナイキにとっては「罰金なんて喜んで払う」という物語が、自社の度胸を示す宣伝として成り立ったんだと思います。

1987年の危機、AJ3とジャンプマン

順風満帆に見えたジョーダンとナイキの関係ですが、実は1987年に大きな危機がありました。2018年のESPNの記事によると、1987年、エアジョーダン1を作ったピーター・ムーアと、契約をまとめたロブ・ストラッサーがナイキを去り、アディダス側へ移っていきます。二人はSports Inc.という会社を作り、のちにアディダスに関わるようになったとされています。ストラッサーはのちにアディダス・アメリカを率い、1993年に46歳で心臓発作により亡くなりました。ウィラメット・ウィークの記事によると、フィル・ナイトはストラッサーを1984年からの再建の「MVP」と評していたそうです。

ジョーダンを口説いた中心人物が二人ともいなくなる。これはジョーダンがナイキを離れてもおかしくない状況でした。そこでエアジョーダン3の担当になったのが、ティンカー・ハットフィールドです。

ESPNの記事には、このときのプレゼンのエピソードが載っています。ジョーダンはゴルフをしていてプレゼンに4時間遅刻し、フィル・ナイトを待たせてしまったそうです。そこで父のジェームスが「ミスター・ナイトに二度とそんな失礼なことをするな」と叱った、という話です。ここでも出てくるのが両親なんですよね。1984年の母デロリスに続いて、1987年は父ジェームス。ジョーダンとナイキの関係の要所要所で、両親が出てきて流れを決めているのは、調べていてすごく印象に残りました。

そして、エアジョーダン3で初めて靴に採用されたのが、あのジャンプマンのロゴです。ESPNの2018年の記事によると、エアジョーダン3は1988年2月に発売されました。ジャンプマンのシルエットのもとになったのは、1984年に『LIFE』誌に載ったヤコブス・レントメスターの写真で、ムーアが150ドルで写真の使用許諾を得たのち、ナイキがブルズのカラーで撮り直したそうです。レントメスターは2015年にナイキを提訴しましたが、第9巡回区控訴裁判所で敗訴しています。

今ではジョーダンブランドの象徴になっているジャンプマンが、こういう経緯で生まれていたのは知りませんでした。ウイングロゴからジャンプマンへ、そしてデザイナーもムーアからハットフィールドへ。エアジョーダンが一人のデザイナーやロゴに頼らず続いていけたのは、この1987年の危機を乗り越えたことが大きかったんだと思います。

1997年、ジョーダンブランドへ

そしてもう一つの「前例破り」が、1997年のジョーダンブランドの誕生です。2017年のAndscapeの記事によると、1997年9月9日、ナイキはサブブランドとして「Brand Jordan(ジョーダンブランド)」を発表しました。ナイキの説明は「マイケル・ジョーダンのパフォーマンスのレガシー、ビジョン、そして本人の直接の関与にインスパイアされた、純粋で本物のバスケットボールブランド」というものです。

最初の商品は1997年11月1日に150ドルで出たエアジョーダン13だったと、Andscapeは書いています。初期の「チーム・ジョーダン」には、レイ・アレン、デレック・アンダーソン、エディ・ジョーンズ、ヴィン・ベイカー、マイケル・フィンリーといった選手が名を連ねていました。ここが本当に大きいところで、ジョーダン一人のための靴だったものが、他の選手も契約する「ブランド」になったんです。現役選手の名前が一つのブランドになって、他のNBA選手がそのブランドと契約する。これは間違いなく前例のないことだったと思います。

一つ注意しておきたいのが、ジョーダンブランドはナイキから独立した別会社ではない、という点です。ナイキの年次報告書(10-K)でも、ジョーダンブランドの売上は「NIKE Brand」の各地域の事業セグメントの中に含めて報告されています。あくまでナイキの中のブランド・部門という位置づけです。僕もなんとなく「ナイキの子会社」みたいなイメージを持っていたので、これは調べて分かったことの一つです。

映画『AIR/エア』はどこまで本当か

2023年に公開された映画『AIR/エア』についても触れておきます。アメリカでは2023年4月5日に劇場公開、日本では2023年4月7日にワーナー・ブラザース映画の配給で公開されました。監督はベン・アフレック、脚本はアレックス・コンヴェリー。マット・デイモンがヴァッカロ、ベン・アフレックがフィル・ナイト、ジェイソン・ベイトマンがストラッサー、クリス・メッシーナがフォーク、マシュー・マーがピーター・ムーア、マーロン・ウェイアンズがラベリング、クリス・タッカーがハワード・ホワイト、ジュリアス・テノンがジェームス、ヴィオラ・デイヴィスがデロリスを演じています。ジョーダン役の顔は映さない演出になっていました。世界興行収入は約9,010万ドルだったそうです。

映画は映画として楽しめばいいと思うんですが、今回調べてみると、史実と違うところがけっこうありました。これまでの話と重なる部分もありますが、まとめておきます。

まず、ヴァッカロがノースカロライナのジョーダンの実家を訪ねる場面。これについてヴァッカロ本人が「あれは起きていない。実際は、デロリスと電話で話をしていた」と話しています。History vs Hollywoodの記事も、実際はフォークが両親に電話をして訪問を取り付けた、と書いています。

次に、デロリスがロイヤリティを持ち出す場面。これは先ほど書いたとおり、ロイヤリティの枠組みはすでにフォークに提示されていて、デロリスの電話はその約束の再確認だった、というのがAndscapeの説明です。プレゼンで見せた靴も、映画では完成品の「Chicago」カラーのエアジョーダン1ですが、実際は黒と赤のエア シップの試作品とウイングロゴの案でした。準備期間も、映画の週末の突貫ではなく約2週間だったとされています。

細かいところでは、フォークの見た目も違うそうです。フォークは当時から髪がなく、自伝のタイトルが『The Bald Truth』(「Bald」は「はげた」という意味)というのは、ちょっと笑ってしまいました。また、フォーク本人の回想では、フォークはもともとナイキ推しだったので、映画で描かれるようなナイキとの対立構図とも違います。

そして今回のテーマに直結するのが、罰金の描写です。Slateの記事によると、映画ではナイキが5,000ドルの罰金を払うと約束する描写があります。でも、ここまで書いてきたとおり、罰金を支払った記録は確認されていません。映画を観て「やっぱり罰金の話は本当だったんだ」と思った人も多いと思いますが、映画はあくまで映画です。

逆に、映画の中で「さすがに盛ってるでしょ」と思いがちな話が本当だったりもします。ラベリングがキング牧師の演説原稿を持っていた、という逸話は事実で、その原稿は現在ヴィラノバ大学が所蔵しているそうです。映画は史実を土台にしながら、ドラマとして分かりやすく再構成しているので、「どこが本当でどこが脚色か」を知ったうえでもう一度観ると、また違った面白さがあると思います。

2018-19シーズン、色の制限が消えた

話をルールに戻します。1984年にジョーダンの黒と赤のエア シップが引っかかった色の規定は、その後どうなったのか。

2018年のESPNの記事によると、NBAは2018-19シーズンから、リーグ史上初めてシューズの色の制限を撤廃しました。シーズン中のいつでも、どんな色の靴でも履いていい、ということになったんです。残った制限は、第三者のロゴを入れる場合は事前承認が必要なこと、尖った突起物や反射素材(クロームなど)が禁止されていること、そしてチームごとに独自の方針を決められることくらいです。

そこに至るまでにも段階がありました。長年の「51%以上が白、または黒で、チームカラーは最小限」というルールから、2000年代後半にチームカラーの靴が解禁され、2012年からはクリスマスなどのテーマナイトに特例が設けられ、2017-18シーズンにナイキがユニフォームの供給を始めるとホームの白ユニフォームが廃止される、という流れです。少しずつ緩んでいって、2018-19シーズンでついに全部取り払われた形です。

ちなみに、色以外の理由で靴が問題になった例もあります。ESPNの2018年の別の記事によると、2010-11シーズンには「APL Concept 1」というシューズが「ジャンプ力を向上させる」という理由で禁止されたり、カーメロ・アンソニーのジョーダンブランドのモデル「Jordan Melo M10」のクローム部分が問題になったりしています。2018年にはステフィン・カリー、カール=アンソニー・タウンズ、ディアロン・フォックスの事例も紹介されていました。

1984年に黒と赤の靴がルール違反になってから、色の制限が撤廃されるまで30年以上かかったことになります。今のNBAでは、選手が毎試合のように違う配色の靴を履いて、試合後にはSNSで「今日の一足」が話題になるのが当たり前です。その出発点に、10月18日のあのエア シップがあったと考えると、なかなか感慨深いものがあります。

伝説は、今も「使われている」

調べていて特に面白かったのが、ナイキ自身がこの伝説をどう扱っているか、です。

2025年10月のナイキの公式記事は、ここまで書いてきたとおり、実際に問題になったのはエア シップだったと認めています。ところが、ジョーダンブランドは2024年のクリスマスに「もし彼らが罰金を払っていなかったら?(What if they hadn’t paid the fine?)」という設定のCMを流しているんです。2025年には、エアジョーダン1の40周年の施策として、ナイキの公式サイトでエアジョーダン1の画像に黒い帯をかけたり、ユナイテッド・センターにあるジョーダン像の靴に黒い帯をかけたりもしていて、2025年2月14日にはエアジョーダン1 ’85 “Bred”が発売されました。

つまり、ナイキは自社の記事では「実際はエア シップだった」と事実を認めつつ、広告では「罰金を払った」物語を今も使い続けているわけです。これ、矛盾していると言えば矛盾しているんですが、僕はむしろ「分かってやってるんだな」と思いました。歴史としての正確さと、ブランドの物語としての面白さを、意識的に使い分けている感じがします。

ほかにも、2011年には「Bred」カラーのエアジョーダン1がアウトレット経由で出回ったり、2016年には「Banned」カラーのエアジョーダン1が復刻され、同じ年のエアジョーダン31のソールに「BANNED」の文字が入ったりしています。2023年にはジョーダンブランドがエア シップを「Every Game」パックとして復刻していて、エア シップの方にもようやく光が当たってきました。

そのエア シップには、こんな話もあります。2021年10月、ジョーダンがルーキーシーズンに履いたエア シップがサザビーズのオークションで147.2万ドルで落札され、当時のスニーカーの競売記録になりました。ただし、この靴は黒と赤ではなく、白と赤のエア シップです。NBAでの5試合目に履いたものとされていて、例の「Banned」の靴そのものではありません。ここはよく混同されるので気をつけたいところです。それでも、ルーキーのジョーダンが実際に試合で履いたエア シップにここまでの値段がついたというのは、エア シップの再評価が進んでいる証拠なのかもしれません。

今のジョーダンブランドの規模

最後に、今のジョーダンブランドがどれくらいの規模なのかも見ておきます。ここはナイキがSEC(アメリカ証券取引委員会)に提出している決算資料に、はっきりした数字があります。

2026年6月30日に発表されたナイキの2026年度決算によると、ジョーダンブランドの売上は70億3,400万ドルでした。前年度の72億7,000万ドルから3%減(為替の影響を除くと5%減)です。ナイキの会計年度は5月31日締めなので、2026年度は2025年6月から2026年5月までの1年間になります。ナイキ全体の2026年度の売上は464億ドルで、前年から横ばい(為替の影響を除くと2%減)でした。

さらに1年前の2025年度決算では、ジョーダンブランドの売上は72億7,000万ドルで、組み替え後の前年度(2024年度)の87億100万ドルから16%減っています。2025年度から決算の表示方法が変わっていて、過去の数字もそれに合わせて組み替えられているので、年度をまたいで比べるときは同じ資料の中の数字同士で比べる必要があります。つまり、ここ2年ほどはジョーダンブランドの売上は減少傾向にある、ということになります。

減っているとはいえ、70億ドルです。1984年、ナイキの期待は「数年で300万ドル」程度でした。そこから40年あまりで、一人の選手の名前を冠したブランドが年間70億ドルを売るまでになった。こうやって数字で並べると、改めてとんでもない話だと思います。

まとめ

正直に言うと、調べる前の僕は「ジョーダンがNBAに禁止された黒と赤のエアジョーダン1を履き続け、ナイキが毎試合5,000ドルの罰金を払い続けた」という話を、ほぼ事実として信じていました。でも実際に調べてみると、1984年10月18日にMSGで問題になったのはエアジョーダン1ではなく黒と赤のエア シップで、NBAがそれをルール違反だったと確認したのは4か月以上後の1985年2月25日付の書簡でした。罰金が実際に科された、あるいはナイキが払ったという記録は誰も示しておらず、金額も5,000ドル説とナイキ自身の記事にある1,000ドル説があります。少なくとも「毎試合払い続けた」という話は、記録の上では確かめられません。

ただ、それでがっかりしたかというと、全然そんなことはありませんでした。むしろ、本当の経緯の方がずっと面白かったです。ナイキの話を聞きに行くことすら嫌がっていたジョーダンを、母デロリスが「行って話を聞きなさい」と飛行機に乗せる。フォークは「Michael Jordan」を却下されたあとに「Air Jordan」という名前を思いつき、ジョーダン本人が「彼がいなければエアジョーダンは無かった」とまで言うラベリングも、ナイキに行けと背中を押していました。そこに、ルールに合わなかったという事務的な出来事を「NBAに禁止された靴」という伝説に変えてしまうナイキの広告が乗っかるわけです。どれか一つでも欠けていたら、今のエアジョーダンは無かったんじゃないかと思います。

「前例を壊した」という点についても、エアジョーダンは史上初のシグネチャーシューズではありませんでした。チャック・テイラーやクライドという前例がちゃんとあります。エアジョーダンが壊したのは「シグネチャーシューズの第1号」という記録ではなく、「チームスポーツの選手は、チームの一員として目立たないものだ」という当時の常識の方だったんじゃないかと思います。靴とウェアとロゴを一体にした個人ブランド、売上に応じて選手の取り分も伸びる契約、そして他の選手まで契約するブランドへの成長。どれも、1984年のNBAの「統一性」とは正反対の発想です。

そう考えると、1984年に黒と赤の靴がルール違反になってから、2018-19シーズンに色の制限が撤廃されるまでの30年あまりは、NBAが少しずつ「選手個人が主役のリーグ」に変わっていった時間だったのかもしれません。その最初の一歩が、ジョーダンのために25足ほど作られたという黒と赤のエア シップだったと思うと、ちょっとロマンがありますよね。

罰金の伝説は、たぶんこれからもナイキの広告で使われ続けると思いますし、それはそれで面白い物語なので僕も嫌いではありません。でも次に「Bred」のエアジョーダン1を見かけたときは、その裏にエア シップという靴と、ジョーダンを飛行機に乗せた母親の存在があったことを、ちょっとだけ思い出してもらえたら嬉しいです。

参考情報・ソース一覧

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